『涼宮ハルヒ』のリアリティ。
もちろん、じっさいにはハルヒみたいな性格はありえないんだけれど、かんでさんのいう通り、深いところでリアリティを感じるところはあります。
ハルヒのような人間性のもち主はいなくても、ハルヒと同じような孤独を抱えているひとはいないわけではない。
そこらへんのリアリティが、一見するとただのご都合主義のライトノベルに過ぎない『涼宮ハルヒの憂鬱』を支えている。
多くの平凡な日常に甘んじている少年たちにとって、ハルヒはヒロインというよりむしろヒーローなのかもしれません。
ただ、甘やかされたヒーローですよね。彼女は本当の意味で人間性の孤独と向きあってはいない。SOS団によって保護されていて、一時的な幸福に浸っている。
そこらへん、甘ったるい話だな、と思わないこともない。ただ、その甘ったるさがあの作品の魅力なのであって、一概に否定できるものではないとも思いますが。
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本文と演出意図、ハルヒとハルヒの本質。
かんでさんの説明で、ハルヒの世界とこの現実の折り合いの付け方が分かりました。
まず第一に、「ハルヒの言動」はやはりこの現実では存在し得ないということ。第二に、「ハルヒっぽい人間」は存在し得るということ。要するに、「隣にハルヒがいる状況」というのは、より正確に言えば「隣にハルヒっぽい人がいる状況」だったんですね。
そして、「物語中のハルヒ」から「現実に存在し得るハルヒっぽい人」を生成するための方法は、本文に書かれていることを捨てて、行間に書かれている演出意図のみを抽出するという(私にすれば)すさまじいものだったんですね。
言われてみれば、確かに私もアニメを見たときには映像と音声を捨てて演出意図とそれを支えるアニメ的文脈のみでハルヒを楽しんでいたような気がしないでもない。ただ、私の小説の読み方というのはまるで違うんですね。
ハルヒの小説は読んだことがないのですが、私が小説を読むときには演出意図は汲みとらないんです。ライトノベルを読むと半分以上は「申し訳ありませんが演出意図を汲みとって読んではくださいませんか」と書かれているかのように思えてしまうので、そういう小説は読まないことにしています(買う前に冒頭一ページを読めば分かる)。代わりに、長嶋有とかその周辺の作家はそもそも演出意図を最小限に抑えつつ文章を書き連ねてくれるので、そういう人たちの小説ばかり読んでいます。
ライトノベル読みの人は、ライトノベルをどう読んでいるんでしょうか。本文を捨てて演出意図のみを抽出して読んでいるんでしょうか。演出意図とのつきあい方が気になります(個人的には演出意図と呼ばれるものが嫌いなんです)。このあたりの話は、ライトノベルリテラシーとでも呼ぶべき能力と関連してくるような気がします。
ところで、「ただの人間には――」のくだりはかんでさんの解釈の方がすっきりしますね。
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現実的なハルヒの生成法と私が求めるリアル
一つ誤解が生じてしまったのかな、と思います。
わかりやすく伝えようと、極端な書き方をしてしまったのがまずかったのかな、と思います。
というのは、私は、本文に書かれていることを捨てて、行間に書かれている演出意図のみを抽出する、というわけではなくて、本文に書かれていることを取捨選択し、不自然なもの、矛盾するものについては演出意図を解釈し置き換え、自然なもの、本質に矛盾しないものについてはそのまま適用するのです。
ハルヒを例にあげたのもまずかったかもしれません。
ハルヒの場合は世界設定にあまりにもご都合主義的な部分があるため、現実との整合性を埋めるために比較的大幅な解釈置き換えを必要とするキャラクターだからです。
ちょっと脱線して、もし私がハルヒの二次創作を書くならば、どうするか、という話をしようと思います。
海燕さんも書かれていたように、ハルヒという作品の魅力はその話の甘ったるさにある、と思います。それを否定はしません。でも、それだけでは物足りないな、と感じるのも事実です。
私ならば、ハルヒから世界の中心の座を奪う、別の登場人物を設定します。放置すれば世界そのものを崩壊させてしまうような絶対的な存在。
その絶対的存在に、「ハルヒ」と「世界」の二択を迫られたとき、SOS団はどんな反応を示すでしょうか。その辺りを細密かつ詳細に描写するであろう、と思います。
その状況下でこそSOS団の本質が初めて問われるのではないでしょうか。彼らはハルヒを捨てるのか、それともハルヒとともに崩壊を受け入れるのか。
「世界の維持のために」と言いながらハルヒを守るSOS団。しかし一方内心ではそれだけではなくハルヒを好ましく思っているかのようにも見えます。そんな彼らが、この状況で実際にどのような反応を示すのか、非常に興味深いですね。おそらく彼らの中で意見は二分されるでしょう、私はそう見ています。
そして、そのような彼らを前にして、ハルヒがどんな反応を示すか、ということはさらに興味深いですね。
そのステージに立って初めて、ハルヒは私の中で、「割と好きな女の子」から「本当に好きな女の子」へと昇華するのではないか、と思います。
しかし、厳密に言えば、それは「ハルヒ」ではないのですよね。
それをハルヒだというのは私の中でだけ通用する認識なのだ、と思います。
そして、私の中では、ご都合主義のぬるま湯からひきずり出された、そんなハルヒこそが「リアル」であると感じるのです。