本文と演出意図、ハルヒとハルヒの本質。

 かんでさんの説明で、ハルヒの世界とこの現実の折り合いの付け方が分かりました。

 まず第一に、「ハルヒの言動」はやはりこの現実では存在し得ないということ。第二に、「ハルヒっぽい人間」は存在し得るということ。要するに、「隣にハルヒがいる状況」というのは、より正確に言えば「隣にハルヒっぽい人がいる状況」だったんですね。

 そして、「物語中のハルヒ」から「現実に存在し得るハルヒっぽい人」を生成するための方法は、本文に書かれていることを捨てて、行間に書かれている演出意図のみを抽出するという(私にすれば)すさまじいものだったんですね。

 言われてみれば、確かに私もアニメを見たときには映像と音声を捨てて演出意図とそれを支えるアニメ的文脈のみでハルヒを楽しんでいたような気がしないでもない。ただ、私の小説の読み方というのはまるで違うんですね。

 ハルヒの小説は読んだことがないのですが、私が小説を読むときには演出意図は汲みとらないんです。ライトノベルを読むと半分以上は「申し訳ありませんが演出意図を汲みとって読んではくださいませんか」と書かれているかのように思えてしまうので、そういう小説は読まないことにしています(買う前に冒頭一ページを読めば分かる)。代わりに、長嶋有とかその周辺の作家はそもそも演出意図を最小限に抑えつつ文章を書き連ねてくれるので、そういう人たちの小説ばかり読んでいます。

 ライトノベル読みの人は、ライトノベルをどう読んでいるんでしょうか。本文を捨てて演出意図のみを抽出して読んでいるんでしょうか。演出意図とのつきあい方が気になります(個人的には演出意図と呼ばれるものが嫌いなんです)。このあたりの話は、ライトノベルリテラシーとでも呼ぶべき能力と関連してくるような気がします。

 ところで、「ただの人間には――」のくだりはかんでさんの解釈の方がすっきりしますね。

夕子ちゃんの近道

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