「作為」の魅力。

 これ、ファンの方には怒られそうですが、「フォーチュンクエスト」は真逆なんですよ。やはり(あまり頭のよくない)女の子の語りでありながら、妙に文章だけはうまいところがあって、作為が鼻につくんですね。なんだか、「本当の作者は頭がいい」ということを主張されてしまっている気がして、一巻までしか読めていません。作者が見えてしまうんですね。

 ぼくは小学生の頃から『フォーチュン』読んでいるんで、いまではオタクといってもいいくらいです。

 でも、ま、あの作品が苦手ということはわからなくもない。良くも悪くも個性つよいですからね。だからこそヒットしたんだろうし、だからこそ受け付けないひとは受け付けないんでしょう。

 『フォーチュン』の主人公であるパステルは、本来、物語に参加する側ではなく、物語を読む側の女の子なんですよね。冒険する側ではなく、冒険を見る側。

 その彼女が、なぜか物語に参加することになる、というところに、『フォーチュン・クエスト』のおもしろさはあります。

 いわば彼女はぼくのような一生冒険とは縁がない読者全員を代表して冒険している。そこに何か切ないようなものを感じます。

 同じ世界を舞台にした物語でも、『デュアン・サーク』はヒーローになるべくしてヒーローになっていく少年を描いた物語で、これはこれでおもしろい。

 ただ、やっぱり「作為」はある。でも、ぼくはその「作為」というものが、決してきらいではないんですよ。

 西鶴さんがナチュラルな小説を好む気持ちもわかるんだけれど、ぼくなんか、そういうものばかり読んでいるともの足りなくなる一面がある。

 上品すぎるというか、高級なディナーか何か食べたあとに、「ああ、牛丼を腹いっぱいかきこみたいなっ」という感じかな。