ケータイ小説は読んでないのですが

ケータイ小説は読んでいませんがフォーチュンクエストは読んでいたりします。
で、これもファンの方には本当に悪いのですが、私はフォーチュンクエストはすごく苦手なんですよね。
ヒロインのパステルに感情移入出来ないんですよ。
ぶっちゃけ、物の考え方、価値観が共有できなかったんですよ。
なまじ、キャラクターがきっちりと演出されているだけに、苦手な女の子を好きなタイプの女の子に脳内補完することも出来ず、あえなく轟沈しました。
と、言っても一応大男が一度死ぬ巻までは読んでいたのですけど、彼にあっさり生き返られてしまうともうお手上げです。
なんというか、このフォーチュンの世界自体に拒否されたような感じがしました。
そこで読むのをやめました。
私にとって、この話の良さは理屈では理解できるのですが、感情では理解できないんですよね。

芸能界で似た印象を持っているのが柳原可奈子さんです。
私は彼女の芸について相当レベルが高いことも理解出来るし、多くのファンがいることも理解できる。
そして美人であるということも認めても良いと思っています。
でも、テレビで彼女の演じる人格、言動を見るにつけいらいらするんですよね。
それは、多分、価値観の圧倒的に違うことを思い知らされるからだと思います。
良し悪しは全く関係ないんですよね。
それどころか実際に直で話をしたら、ひょっとしたら話が合うかもしれません。
それでも、生理的に苦手なんです。

でフォーチュンにも似たことが言えるんですよね。
生理的に受け付けられない部分がある。

でそれは普段、自然に自分勝手な解釈をして物を見ている人間として、どうしても苦手なものだとしか認識できなかったいらだちにより、嫌悪感が倍増されてしまうのです。

あくまで個人的な見解なんですけど。

 閑話休題。フォーチュンの話で西鶴さんが「演出意図」を嫌われる、というニュアンスが少しわかった気がします。
 演出意図を排除して小説を読み進めることは私には不可能なので不思議に思っていたのですが、作者の意図が強すぎて登場人物が、その意のままに動かされている人形のようなイメージに見えてしまっては興ざめですよね。
 フォーチュンクエストが誰にとってもそう見える、とは言いませんが、私にはそう見えたと思います。西鶴さんも似たような印象を持たれたのではないでしょうか。

 作者のイメージと主人公のイメージがダブる時ってその辺の違和感が少なくて済むと思います。
 乙一さんなんかそんな感じがします。実際には全然別物の人格のはずなんですけどね。
 作者と作品を切り離して考えることも時には必要である、ということは頭では理解できるのですが、なかなかそれを実践できないんですよね、私は。
 どうしても作者をイメージしてしまう。

 その結果、物語に入り込めないことがありますね。グイン・サーガの100巻前後とか。私はその辺、不器用なんだと思います。