ハルヒからケータイ小説に話が飛びます。

 ハルヒの話には一応けりがついたかなと思います。そんなこんなで、話は飛びます。

 今回のハルヒの話では、「リアルなハルヒ」はこの現実世界にはおらず、かといって小説やアニメの元の世界にもおらず、別の物語や思考の中に存在するということになりました。で、その別の(よりリアルな)物語にハルヒを持ってくるときには、本文のつじつまの合わないところを補完したり、削ったりするということでした。そして、その補完されたハルヒは「リアル」なのです。

 という前置きをしておいて本当に話はケータイ小説に飛ぶのですが、ケータイ小説を「リアル」だと感じる人というのは、「リアルなハルヒ」を作るのと同じようなことを無意識のうちにしているんじゃないかなと思ったんです。

 私は「あおぞら」しか読んでいないのですが(これもケータイ小説の一種ですよね?)、「あおぞら」の一連のエピソードが全て一人の女の子の身に起きる可能性はほとんどないですし、個々のエピソードもかなりハルヒのようにデフォルメされていますが、本文のつじつまの合わないところを補完したり削ったりすれば、かなり「リアル」になり得るんじゃないかと思いました。

 実は、私自身、かなり「あおぞら」を楽しんで読みました。先日私は「演出意図」や「作為」といったものが嫌いだと書いたのですが、「あおぞら」はかなりうまく作為を消す文体を使っています。女の子の一人称の手紙の文体なので、語り手である主人公がディティールを思い出したくない場面は簡潔に書いても不自然ではないんですね。また、文章の稚拙さも語り手の年齢にそったものになっていて、不自然ではない。十代の女の子の手紙文体として、かなり首尾一貫したものになっています。「あおぞら」そのものを貶す人はいても、「あおぞら」の作者を想定してその人を貶す人は見かけないです。

 これ、ファンの方には怒られそうですが、「フォーチュンクエスト」は真逆なんですよ。やはり(あまり頭のよくない)女の子の語りでありながら、妙に文章だけはうまいところがあって、作為が鼻につくんですね。なんだか、「本当の作者は頭がいい」ということを主張されてしまっている気がして、一巻までしか読めていません。作者が見えてしまうんですね。

 話がそれてしまいましたが、「あおぞら」は読む人が読めばそこら辺のノンフィクション(「中田英寿 誇り」とか「走ることについて語るときに僕の語ること」とか)と同じくらいには「リアル」になるんじゃないかと思います。なにせ、作為の消し方がうまい。

 って、ここまで書いてからmixiamazonの「あおぞら」のレビューを見たのですが、これをフィクションだと言いきっている人がいなかった(mixiは最後まで目を通していませんが)。これ、ノンフィクションなんでしょうか。なんにせよ、物語のリアリティは、現実との距離とは無関係ですね。

あおぞら

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フォーチュン・クエスト 1 (電撃コミックス)

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中田英寿 誇り

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走ることについて語るときに僕の語ること

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