Re:隣のハルヒ。


 なるほど、確かにアニメの中の言動を全て包含しなければハルヒではない、と言い切ってしまえば、僕の隣に「ハルヒ」が存在することはあり得ないですね。
涼宮ハルヒの憂鬱」が「商業アニメ」である以上、「涼宮ハルヒの憂鬱」という物語、あるいはハルヒを始めとするとするキャラクターの仔細を視聴者に伝えなければならない、という前提が生じてくるのですよね。
 ハルヒのこれまでの生涯を十数年かけて全て描くことは不可能です。それどころか、1クール通しても数時間しか尺はない。
 だからこそ、意図的な演出により、ニュアンスを表現する必要が出てきます。
 結果としてアニメのキャラクターはご都合主義のルールのなかでディフォルメされた言動を行うことになります。その全てをそのまま現実に行う人間はまずあり得ないと言ってもいいでしょう。
 ですが、逆に、その演出の目的に着目してみるとどうでしょうか。ご都合主義に用意された舞台において行われたデフォルメされた言動により作り手が視聴者に伝えようととしたものは何でしょうか。
 ハルヒで言えば、「言いようのない孤独に囚われている」というのが彼女の本質だと、私は捉えています。ここまで枝葉をそぎ落としてしまえば、そこに残るものは、決して現実に存在し得ないものではない、と考えるのです。
 例え現実で「ライブアライブ」のように寝転がることが無かったとしても、本質がぶれなければ、私はその彼女を「ハルヒ」であると認識します。
 実際に孤独に囚われた人はこの世に多く存在していると思います。
 演出の不自然な部分を方便として取り除いていけば、どんなキャラクターも、隣に存在することを想像することが出来ます。人でないキャラクターであってさえ、大抵は擬人化できる。
 他の人にとっては、それは奇異なことに映るかもしれません。でも私にとってそれはごく自然な思考なんですよね。

 あと、ハルヒの 「ただの人間には興味ありません」については、私はそのままの意味で受け取ることはしませんでした。彼女はこの世の常識を覆すような体験をしたかった。だから、通常でない人間を求めている。その意図を表明したかったのだ、と捉えました。その意図を知らしめる対象として捉える、というレベルにおいてはハルヒは「ただの人間」に対して興味を持っている。だから、ハルヒが現実に存在する上で「ただの人間に興味がない」ことは必要条件ではないと考えます。
 あくまで私の個人的な見解ですけども。