境界をこえていけ。

 Twitterでやり取りしながら、『アメトーーク』の「エヴァ芸人」の回を見ていた。最初は痛々しくて見ていられなかったんだけれど、最後のほうはかなりおもしろかった。

 過去に「ガンダム芸人」「ジョジョ芸人」などの回などもやっているんですが、今回はネタが『エヴァ』だけに話もディープ。で、こういう番組を見ていると考える。「伝えること」の意味を。

 だれしもそうだと思うが、同じ価値観のもち主と好きなものについて語ることは楽しい。何もいわなくても相手はわかってくれるからだ。

 しかし、逆に、価値観の違う相手に自分の好きなものを語ることは抵抗感がある。拒絶されるかもしれないし、もっと悪いことには自分が大好きなそのものを否定されるかもしれない。

 だから、一般にひとは放っておくと自分に近い価値観の人間と親しくなるようになるものだと思う。それは当然のことだし、否定しようもない。

 が、それではもの足りないと思うこともある。ぼくは伝えたいのだ。自分が好きなものがいかにすごいか、素晴らしいか。そしてわかりたいのだ。ぼくがまだ知らない素晴らしいものを。狭いサークルのなかにこもっていることはいやだ。

 とはいえ、一方ではこう思う。別にいいじゃん? オタクは萌えアニメ見て、腐女子はBL漫画読んで、中年女性は韓国ドラマを見て、女子中学生は携帯小説読んでいれば? 

 それぞれのジャンルはすでにそれだけで十分満足できるくらいの奥の深さがあるわけだし、その外の世界の価値観とぶつかったりしたら不愉快なだけじゃん?

 「韓国ドラマなんて安っぽい」「携帯小説なんてくだらねえ」というひとは多い。たしかにそうかもしれない。でも、くだらなくて何が悪いのか? 安っぽくいことの何が問題なのか? いいじゃん、どうせ一時心を和ませるだけの消費物なんだから。

 安っぽいドラマに熱中している人間が安っぽい人間だとは限らない。たとえば『水戸黄門』を見ている主婦がその勧善懲悪を信じているわけでもないだろう。

 ひとは一時心を癒やすためにそういうものを必要とするものなのだ。ぼくだって安っぽい作品をいくらでも読んでいる。とても他人を非難できない。

 でも。「ぼくは」やっぱりそれじゃ満足できない。しゃべりたいのだ。聞きたいのだ。コミュニケーションしたいのだ。自分と異なる価値観のもち主と。

 つまり、いまある自分を拡張したいのだ。そしてそういうきっかけになりうる作品をこそ見たいし、読みたいと思う。

 だから、ぼくはあるカテゴリにきっちり収まる作品よりも、そこからはみ出て、別のカテゴリと接触している作品のほうが好きだ。そこにこそ可能性を感じる。

 そういう意味で『コードギアス』辺りはちょっともの足りない。あまりにもターゲットがはっきりしすぎている。もっとはみ出てほしいと思う。

 ただ、ほかのひとがぼくが望んでいるように交流を望んでいるかどうかはわからない。「放っておいてくれ。ここに閉じこもっているのが好きなんだ」といわれたら? ぼくには返す言葉がない。

 それで何も悪くない。でも、つまらないと思うんだよね。やっぱり。